現実を 書き換えない。
私の現実、あなたの現実。
それぞれの現実を尊重したい。
少し外れた音。
揺れた声。
走ったテンポ。
不安定だった一瞬。
そして、それを直したくなる。
その気持ちはよく分かる。
作品を世に送り出すなら、
できるだけ美しいものにしたい。
けれど、ライブには、
作品とは少し違う役割と魅力があるのかもしれない。
だからといって、
何もせず、そのまま出せばいいわけでもない。
隠さない。けれど、雑に見せない。
ノイズを整える。
聞きづらい帯域を少し抑える。
その夜の空気を壊さない範囲で、
音を美しくする。
けれど、
その人が本当に鳴らした音まで
別のものに変えてしまわない。
私はライブを見るとき、
完璧だったかどうかは、それほど見ていない。
もちろん、間違ったらわかる。
でも、間違ったあと、
演奏者がどうするかを見ている。
すると、
その人がステージに立ったとき、
空気をつくれるかが見えてくる。
声に説得力があるか。
演奏者と、その演奏表現に、
本当にオーガニックな関係があるか。
いや、これは少し形而上的で、わかりにくい。
一言で言えば、
その場所で、
音楽が生きているか。
それを見ている。
だから、少し風が入っていてもいい。
声が少し揺れていてもいい。
音のバランスが、
完全ではなくてもいい。
その夜にしかなかったものが
そこに残っている方がいい。
現実を美しくすることはあっても、
現実を書き換えない。
たぶん、それは音楽だけの話ではない。
私も、そしてたぶん皆、
自分の弱さや未完成な部分を
なるべく見せたくない。
けれど、本当に誰かの心を動かすものは、
完璧に整えられた姿ではなく、
それでもそこに立っている
人の姿なのだ。
自信というものも、
自分に言い聞かせて生まれるものではないのだろう。
何度も立つ。
失敗する。
それでも続ける。
誰かの音を聴く。
自分の声に戻る。
そういう時間の積み重ねが、
いつか身体の中に残る。
そしてある日、
自分の演奏を見返したときに、
ここを直さなければ、
ではなく、
あの夜は、ちゃんと生きていた。
そう思えるようになるのかもしれない。
それに気づくかどうかは、
結局、その人自身にしか決められない。
誰かが教えてくれることでもない。
だから私は、
自分が何を信じているのかだけを
ここに残しておこうと思う。
隠さない。けれど、雑に見せない。
現実を美しくすることはあっても、
現実を書き換えない。
そして、これは誰かの音楽を見ながら、
自分自身に言っていることでもある。
もし、もう一人の自分がいればいいのに、
と思うことがある。
自分を少し離れたところから見て、
大丈夫だ、と言ってくれる自分が。
けれど結局、
自分の敵も、
自分を許す人も、
自分の心の中にしかいない。