A Note from Tonight
赤裸々に描くこと
赤裸々に描く。
もし赤裸々に描けたとして、
その絵が本当に赤裸々なのかどうか。
大切なのは、きっとそこなのだと思う。
Island Echoで起きていることを、
いつか赤裸々に書きたいと思っている。
たとえば、さださんが言う。
曇天の日の新月もいい、と。
そして、此処の波音はいい。
此処で唄うことは、
なかなか体験できないことだ、と。
そして、
さださんの妹御であり、
うたの返し手であるえりなさんが、
ライブの冒頭でこう言い切った。
新月とは、浄化の日。
その言葉に、心がふるえた。私たちは、現場で多くの言葉を交わすわけではない。けれど、石垣島のこの場所で、空気を震わせるように私たちは場を作りはじめて、もう五年を超えた。
言葉では伝えられないことを、
音楽は伝えてくれる。
私たちは、それを説明しているのではない。
自分たちの身体で、そのままやっている。
私は企画書に平坦な言葉を書く。
波音と音楽。
石垣島で過ごす夜。
月を待つ時間。
それは嘘ではない。
むしろ、真実でしかない。
けれど、その真実の奥には、
まだ書けないことがある。
うたは、生で体験しなければわからない。
そして、ときに、そのうたを聴いたことで、人生が変わってしまうことがある。私はそれを知っている。けれど、言葉では、そこまでは書けない
なぜ今日、こんなことを書いているのか。
私は、今朝、
正岡子規の言葉を思い出したからだった。
「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。」
新月の夜。
曇天の空。
波音。
大浜村のうた。
独唱と、返しの声。
八重山のゆんた。
そのすべてが重なったとき、
私は、
音楽が何かを説明するものではないことを、
また思い出した。
音楽は、説明しない。
ただ、その場にいる人の中で、
何かをほどいていく。
浄化とは、
美しい言葉を並べることではない。
悲しみも、
記憶も、
疲れも、
祈りも、
そのまま抱えたまま、平気で生きていること。
たぶん、此処 Island Echoで起きていることは、
そのようなことなのだと思う。
月と波のあいだで、
人は少しだけ、自分の本当の呼吸に戻る。
その瞬間を、私はまだうまく書けない。けれど、書けないということの中にこそ、この場所の真実がある。